矢口高雄マンガで学んだホビーマンガの極意(第8回)

◆アンテナのイラストを描いて無線局を開局

「すがやクン、確か、アマチュア無線の免許を持っているって言ってたよね?」

 新宿の石森プロに出かけたとき、石ノ森先生のマネージャーをしていた加藤昇さんが、ふいに声をかけてきました。

「はい」と返事をすると、「石森(当時)にアマチュア無線用アンテナの広告イラストを描いてほしいという依頼があって、引き受けていたんだけれど、描く時間がなくてね」とのこと。しかも「よければ、すがやクン、描いてくれない?」というのです。石ノ森先生は、マンガの仕事だけで月産500~600ページ。そのほかにテレビの仕事もたくさん抱えていて、いつも寝る暇もない状態でした。

 アマチュア無線に関連した仕事なら、もちろん「喜んで!」です。広告イラストを描く商品は、天井から吊すタイプの室内用水平ダイポールアンテナでした。私は、4畳半くらいのゴミ溜めみたいになったアパートの室内で、オタク風の青年が、このアンテナを使って交信している様子を1/2大の絵に描きました。

 石ノ森先生のピンチヒッターだったにもかかわらず、加藤さんによると「大好評だった」そうで、その好評分を原稿料に上乗せしてくれるとのことでした。あとで支払い明細書を見ると、なんと、この半ページ大モノクロイラストのギャラは、1枚で5万円になっているではありませんか! これはもう天啓というしかありません。もちろん「もうアマチュア無線をやるしかないだろう!」という天啓です。さっそく私は秋葉原に向かいました。そう、あの〈電気の街〉の秋葉原です。

 それまで秋葉原に行ったことはありますが、詳しくはありませんでした。そこで雑誌の広告などで知っていたアマチュア無線ショップの九十九電機(現ツクモ)に向かうことにしました。

(写真右:文章の年から9年後、1983年の秋葉原駅〈拡大写真〉/写真下:マイコンショップになった1983年のツクモ〈九十九電機〉〈拡大写真〉)

 店に着いて「TX-88Aと9R-59が欲しいんですけど……」と店員に憧れだった機種の名前を告げました。すると、もう製造が終了していて売られていないとのこと。店員は、こちらの住環境などを質問し、「アパート住まいじゃHFは無理なんじゃないの?」と言います。

「HF」は3MHzから30MHzまでの短波帯のこと。アマチュア無線では3.5、7、(14)、21、28MHzの周波数帯を使っています(14MHzは1級、2級のみ)。最もポピュラーな7MHz帯の電波の波長は40メートル。アンテナは半波長のサイズを使うのが一般的なので、20メートルの長さが必要になります。アパート住まいでは、こんなに長いアンテナを張るのは現実的ではありません。

「こんなところがいいんじゃないの?」と店員が推薦してくれたのは、『幻の大岩魚アカブチ』でヒロインが使っていた松下電器のポータブルトランシーバーRJX-601でした。この年(1973年)に発売されたばかりで、50MHz~54MHzのアマチュア無線バンドをフルカバーし、AMとFMが使えます。折りたたみ式のロッドアンテナも内蔵されていて、これを引き延ばせば、外部アンテナ無しで通信も可能。単2電池を9本入れれば、持ち歩いて使うこともできました。アパート住まいの身には、これ以上、打ってつけの無線機はなさそうです。

RJX-601カタログ

 値段は3万円くらいだったと記憶していますが即座に購入を決定。一緒に無線局の開局申請書も買って、アパートに戻ると早速、書類を書き上げました。これを郵政省の電波監理局(当時)に送ると、1ヶ月ほどで無線局の免許証が到着しました。コールサインはJI1MFTでした。

 これで晴れて電波を飛ばせます。平日の午後でしたが、さっそく、その頃、仕事場に借りていた高円寺のアパート2Fの窓を開け、そこからRJX-601のアンテナを伸ばして外に突き出し、「ハローCQ、こちらはJI1MFT……」と記念すべき第一声を放ちました。

 すぐに反応がありました。応答してくれたのは、世田谷区赤堤在住の〈たのかえる〉という妙な名前の人。これはペンネームで、「週刊プレイボーイ」などで仕事をしていた薄井さんというイラストレーターでした。この交信がきっかけで親しくなった薄井さんは、その後、富士通から発売されたワープロを買ったのを機に、薄井ゆうじの名前で小説を書くようになり、後に小説現代新人賞を受賞。さらに吉川英治文学新人賞も受賞します。

 RJX-601は50MHzの専用機なので、外部アンテナをつけないと、半径5kmくらいが交信範囲です。交信を開始した直後、近所に住む中学生と知り合ったら、使っていた垂直ダイポールアンテナが、八木アンテナに変更するので、不要になるとのこと。それを安く譲ってもらい、アパートの大家さんに断って、屋根の上に立てました。

 アンテナを立てたおかげで交信範囲も広がり、いろんな人たちと知り合います。新宿西口方面に住んでいた中学生3人組は、こちらがマンガ家と知って頻繁に遊びに来るようになりました。彼らは秋葉原の裏の裏まで知っていて、彼らのガイドで秋葉原にも詳しくなり、暇さえあれば秋葉原にも出かけるようになります。秋葉原の行先はハムショップだけでなく、パーツ店や裏通りのジャンク屋にも行動半径がひろがりました。エレキットを買ってきては電子工作も楽しむようになり、やがてマイコンとも出会いますが、それは、もう少し先の話になります。

(写真:後に所沢市に引っ越した後、ハム仲間の福ちゃんから譲ってもらった大出力のトランシーバー〈トリオTS-600〉で交信中の筆者。1979年、28歳のとき)

 福ちゃん、山ちゃんというニックネームの大学生2人とは、近所だったこともあり、1976年にタミヤの電動ラジコンカーが発売になると、一緒に走らせて遊ぶようにもなります。ただし、まだ自分のラジコンカーは持っておらず、ハム仲間のラジコンカーを貸してもらって走らせていました。そろそろ石森プロでのコミカライズの仕事も卒業し、専属のアシスタントも抱えて、オリジナルマンガで生計を立てはじめていた頃でした。

次回につづく