すがやみつるのデジタルマンガことはじめ(1)

まず、はじめにマイコンありき

 いま、マンガは読むのも描くのもデジタルが当たり前。マンガが過去最高の売り上げを記録しているそうですが、これも電子書籍版が急激に普及しているおかげです。もちろん描く方も、いまではパソコン+液タブ+クリスタの組み合わせが多いのではないでしょうか。iPad Proを使っている方も多いようですが。私もいまは「Windows 10+ワコムの液タブ+クリスタ」と「iPad Pro+クリスタ」を使っています。

 パソコンも古くから使っているので、「デジタル作画の経験も長いのでは?」と訊かれることも多いのですが、古いような古くないような、おかしな感覚があります。それというのも、古くからデジタル作画に何度も手を出していたのに、「これじゃマンガの原稿には使えない」と断念することを繰り返していたからです。

 今回は、そんな「すがやみつるのデジタルマンガの歴史」について、書いてみたいと思います。長いので、数回に分けて掲載させていただきますね。

 私は、1971年に『仮面ライダー』のコミカライズでマンガ家デビューしましたが、マンガで生活できるようになると、高校生のときに免許だけ取得していたアマチュア無線(ハム)をはじめました(アマチュア無線をはじめたキッカケについては、あらためて紹介させていただきます)。

 テレビで人気があった『仮面ライダー』(「テレビマガジン」「冒険王」連載)は、ページ数も多く、その他のコミカライズの仕事も合わせると、月産300ページ以上になることも珍しくありませんでした。徹夜、徹夜でマンガを描いている状態でしたから、アマチュア無線をはじめると、眠気覚ましに、24時間、誰かと無線で会話するようになりました。

 そして暇ができれば、無線機を改造するための部品をさがしに秋葉原に出かけるようになりました。最初に無線機を買いに行きましたが、有名なハムショップしか知りません。そんな私に秋葉原の表から裏まで案内してくれたのは、無線で知り合い交信仲間になっていた中野区と新宿区在住の中学3年生男子数名でした。彼らにとって秋葉原は庭みたいなもので、アマチュア無線の専門店から路地裏の怪しいジャンク専門店まで、よく知っていて、しかもお店の人とも顔なじみでした。

 秋葉原に詳しいマンガ家として、「現代視覚文化研究」(三才ブックス,2010年,写真も)で、アキバの申し子でもある桃井はるこさんと対談したことも。写真はラジオセンター2Fの内田ラジオにて。私が手にしている真空管は6WC5という7極のST管です。小学6年生のとき、この真空管を使ってワイヤレスマイクを作りました。

 その後、小学館の学年誌で『キカイダー』や『ゴレンジャー』『ロボコン』などを連載するようになると、こちらから小学館に打ち合わせに出向くことが多くなりました。神保町にある小学館に行く口実ができれば、ついでに秋葉原にも寄れるからです。先に秋葉原に行ってから、帰りに小学館に寄ることも多かったのですが、そんなときはたいてい、無線や電子工作のパーツ、ラジオ雑誌……そして、1976年あたりになると「マイコン雑誌」などを持っていくようになりました。いずれも秋葉原で買い求めたものばかりです。

 こちらは「週刊ダイヤモンド」の秋葉原特集(ダイヤモンド社,2010年)に掲載されたマンガの1ページ。この年、秋葉原絡みの仕事が続いたのは、前年に広瀬香美さんの「ビバ! 秋葉原」という曲の替え歌を作ってしまい、それを広瀬さんが歌ったのがきっかけだったのかどうかは不明です。

 こんなことに興味を示すマンガ家は珍しかったのでしょう。その頃、小学館でお世話になっていた学年誌の編集者は、私のことを「宇宙人」と呼んでいたそうです(笑)。数年後、そんな宇宙人マンガ家のことを覚えてくれていた編集者がいて、『ゲームセンターあらし』の執筆者に私を指名してくれることにもつながるのですが、それは、またの機会にさせていただきます。

「マイコン」に興味を持ったのも、ハム仲間の影響でした。NECから発売されたTK-80Kというワンボードマイコンをハム仲間が買ったというので、見せてもらったりしていました。でも、アナログ世代のアマチュア無線家でもあったため、マイコンのようなデジタル回路はチンプンカンプン。しかたがないので秋葉原でテキサスインスツルメンツ(TI)の74LSシリーズというロジックICを購入して、LEDを点けたり消したりしながらデジタルの基礎となる論理回路を独学していきました。

 それでも初期のマイコンは、電卓のオバケみたいなもので、何ができるのかもよくわかりません。NECのショールームBit-INNでは、HOゲージの電車の走りをコントロールさせたり、光線銃が当たったかはずれたかを判定していましたが、これらを制御する機械語とかアセンブラとかいうプログラムというものが、まるで理解できませんでした。(左の写真は1983年頃のラジオ会館。この7FにBit-INNがあった。右下の写真はラジオ会館7Fの壁に埋め込まれていた銘板。撮影・すがやみつる)

 それでも当時発売されていたマイコン雑誌(「I/O」「アスキー」「マイコン」「RAM」等)は全て購入し、わからないなりに読んでいましたが、やがて、BASICというプログラミング言語が使えるマイコンが登場してきます。タイプライターのようなキーボードも点いていて、テレビ型のモニターに英数字を表示できるようになりました。

 すでにテーブルテニス(PON)やブロック崩し(Break Out)といったテレビゲームが登場し、喫茶店にもテーブル型の筐体がならぶようになっていた頃です。マイコンもパソコンと呼ばれるようになり、雑誌にはゲームのプログラムがたくさん掲載されるようになりました。

 ――パソコンがあれば、自分の家がゲームセンターになる!

 こんなことを夢想した人も多かったのではないでしょうか。かくいう私も、そのひとりでした。この頃は、パソコンでマンガを読んだり描いたりすることなど、考えてもいませんでした。

〈つづく〉