矢口高雄マンガで学んだホビーマンガの極意(第5回)

◆『幻の大岩魚アカブチ』で再びショックを受ける

 矢口先生は、「少年サンデー」で『おとこ道』の連載をスタートさせたことから、「もう釣りマンガは描かないのかな?」と思ったりしましたが、そんなことはありませんでした。「少年サンデー」の増刊号で『岩魚の帰る日』を発表してくれたりしていたからです。

 でも、釣りマンガは読み切りだけ。内容が内容だけに、マニアックすぎると思われ、週刊誌の連載にまでは至らないのかなあ……と心配してもいました。『おとこ道』の終了直後、「週刊少年チャンピオン」で『燃えよ番外兵』(原作・小池一夫)という連載マンガがスタートするのですが、これも、ちょっと似合わない印象を受けていました。小池先生の原作作品は好きなものが多かったのですが、この作品については、あまりピンと来ませんでした。1971年になってからのことです。

 この年、私は石森プロで仕事をするようになり、11月に創刊された「テレビマガジン」に掲載された『仮面ライダー』(原作・石ノ森章太郎)のコミカライズで、マンガ家デビューを果たしました。ただし、この時点でのクレジットは「まんが・石森プロ」。「すがやみつる」の名前を出してもらえるようになったのは、翌72年に「月刊冒険王」で連載を開始した『新・仮面ライダー』からでした。

 テレビの『仮面ライダー』が高視聴率を獲得し、それに合わせてマンガのページ数も増えていきます。『仮面ライダー』のコミカライズや『さるとびエッちゃん』『変身忍者嵐』などの絵本や商品につける絵の仕事で、仕事量だけは売れっ子マンガ家並みになっていきます。

(図:『新・仮面ライダー』『さるとびエッちゃん』〈ともにすがやみつるが構成・作画を担当〉© 石森プロ)

 仕事が忙しくて食事は店屋ものとインスタントラーメンだけ。栄養が偏ったせいか髪がゴソゴソと抜けるようになり、郷里から母を呼んでメシスタントをしてもらうようになります。私の母は調理師の資格を持ち、割烹料亭で板前をしていました。そんなことから食事の栄養バランスも考えてくれ、栄養失調状態は改善されたのですが、週に一度だけは外で食事をするようになっていました。

 外食といっても近所のラーメン店です。餃子とラーメン、餃子と炒飯、餃子と中華丼……みたいなセットばかりを頼んでいました。ここで外食をするのは、毎週水曜日。「週刊漫画アクション」の発売日で、店に置かれていたからです。

「漫画アクション」には面白い作品が多くて愛読していたのですが、自分で買っていたわけではなく、ラーメン店で読みつづけていました。その後、引っ越しますが、そこでも水曜日になるとラーメン店に行って「漫画アクション」を読んでいました。『遙かなる甲子園』(山本おさむ氏)が終了する頃まで続きましたから、1990年頃までですね。この直後に自宅に仕事部屋を増築し、石神井公園に借りていた仕事場を畳んだので、外食の機会が減ったのでした。双葉社さん、すみません。

 その「漫画アクション」で矢口先生の読み切り連作『釣りバカたち』がはじまったのは、1972年のこと。また矢口先生の釣りマンガが読めるということで、毎週水曜日のラーメン店通いが習慣化することになります。そして、この年の終わり頃から矢口先生は、少年誌の舞台を講談社に移し、「少年マガジン」で読み切り作品を発表するようになりました。話題になった『幻の怪蛇バチヘビ』は、原点となる作品が『釣りバカたち』にありました。その直後に「少年マガジン」に掲載されたマンガで、私はまたも大きなショックを受けます。それが『幻の大岩魚アカブチ』という読み切り作品でした。

(図:『釣りバカたち』第1集© 矢口高雄〈Kindle版で購入〉)

『幻の大岩魚アカブチ』は、蛇を餌に巨大岩魚を釣るというストーリーで、これも「釣りバカたち」にベースとなる作品がありました。ストーリー上でも連続しています。でも私が驚いたのは、もっと別の部分でした。この作品の登場人物たちはアマチュア無線をやっていて、無線の交信で釣りの情報を交換していたのです。私がビックリ仰天したのは、アマチュア無線の描かれ方でした。

(図:『幻の大岩魚アカブチ』より。講談社刊『釣りキチ三平』第5巻所載。© 矢口高雄〈Kindle版を購入〉)

次回につづく