実は私もアマチュア無線の免許を持っていました。免許を取得したのは高校生になってからですが、ラジオいじりをはじめたのは小学6年生の終わり頃でした。マンガを描きはじめたのと、ほとんど同時です。 NECのSD-46というダイオードを使ったゲルマニウムラジオからはじまり、中学生になると6WC5という真空管を使ったワイヤレスマイクを経て、6V6という大出力の真空管を使ったアマチュア無線用の送信機まで作ってしまいます。
(写真上左:ゲルマニウムラジオ〈2020年に関西の大学でオンライン授業をした際、ゲルマニウムラジオの話をすると、見たことがない学生ばかり。驚いて、自分でキットを購入し、組み立てたものを授業で見せました)
(写真右:2010年に発売された『現代視覚文化研究 vol.4』〈三才ブックス〉に掲載された桃井はるこさんとの対談「秋葉原の過去・現在・未来」のために撮影された写真。すがやが手にしている真空管が6WC5。〈拡大写真〉© 三才ブックス)
この時点では、まだ免許は持っていませんでしたので、近所に住むアマチュア無線家(ハム)の高校生に私の自作送信機をテストしてもらうことに。すると、静岡県富士市から80km近く離れた山梨県甲府市のハムと交信できてしまい、自分でもビックリでした。
中1の秋、ハムの国家試験を受けましたが、にわか勉強だったので、みごとに敗退。再挑戦するつもり高校物理の教科書を読んだりしながら無線機作りに励んでいました。そんな中学生活を経て中3になった直後のことです。学習塾をしていた父の友人が、私が学校に行っている間に、半田ごてにラジオペンチにニッパー、真空管、抵抗、コンデンサーといった工具から部品までの一切合切を、無断で持ち出し処分してしまったのです。その前年に、無線に夢中になっていた教え子が高校受験に失敗したというのが理由でした。
あまりの理不尽さにカリカリしていたときに出会い、読んでしまったのが、石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』でした。1965年8月、中3の夏休み中でした。それまでマンガも描いてはいましたが、無線機作りの合間にペンを走らせる程度でした。ただしマンガを読むことは続けていて、貸本店の常連でもありました。でも、マンガ家になろうなんてことは夢にも思っていませんでした。将来の希望は「電気の仕事をして、趣味でマンガを描く」だったのです。
でも、『マンガ家入門』を読んだとたんに「マンガ家になりたい!」と強く思うようになりました。『マンガ家入門』は「龍神沼」をテキストに、マンガの構成方法を詳細に解説した本として知られています。しかし、私の琴線にビンビンと響いたのは、第1部となっていた石ノ森先生の半自叙伝の部分でした。中学生の頃から投稿をはじめ、高校生のときには「漫画少年」に投稿していたマンガが認められて、手塚治虫先生からアシスタントを依頼されたり。高校を卒業して上京した後は、あのトキワ荘に入り……といった自叙伝の部分に心を鷲づかみにされ、ふたたびマンガを描くようになりました。
我が家は、私が小学5年生のときから父が寝たきりで、母がひとりで働いていました。このような経済状況では、高校に行くのも難しい状態でした。行くとしても授業料の安い県立高校以外の進路は考えられません。私は、マンガ家なら学歴不要だと考え、中卒でマンガの道に進もうと、中3の2学期は高校の受験勉強などそっちのけで、マンガの執筆に専念しました。完成したマンガの原稿に、「弟子にしてください」と母に無理矢理書いてもらった同意書を添え、石ノ森先生のところに送りました。マンガ家の住所は、秘密ではありませんでした。連載マンガの柱に「はげましのお便りを出そう」という文が、当たり前に掲載されていた時代でしたから。
当然といえば当然ですが、返事はありませんでした。後に聞いた話では、当時、石ノ森先生のお宅には、私が送ったのと同様のマンガ原稿や手紙が、文字どおり山のように届き、開封もされないまま、段ボールに入れられ、天井にまで届くほどに積まれていたそうです。
石ノ森先生からの返事がないので、「マンガ家をめざすのはいいが、マンガ家になれなかったとき、高校くらい出ておかないとツブシが利かなくなる」という親戚一同の説得を受け入れ、高校に進学しました。
高校に入った直後の高1のとき、「ボーイズライフ」(小学館)という雑誌の読者欄で、石ノ森章太郎先生を名誉会長にした同人誌をはじめるとの告知を見つけ、これに応募して会員にしてもらいます。その結果、2~3ヶ月に一度は静岡県富士市から東海道本線で上京し、石ノ森章太郎、松本零士、久松文雄先生らのお宅や「COM」の編集部などを訪ねては、自作マンガの評をあおぐようになります。
(図左:初めて石ノ森章太郎、松本零士、久松文雄各先生のお宅を訪ねたときに描いていただいた色紙)
高校では水泳部、物理部、美術部を掛け持ちしていました。水泳部に入ったのは、マンガ家になるための体力をつけるため。「勉強ができなくてもマンガ家にはなれるが、身体が弱くてはマンガ家にはなれない」というマンガ家志望者へのアドバイスを雑誌か貸本劇画誌で読んで、毎日、泳ぐようになりました。中学生のときまでは、身体が弱く、ちょっとしたことで寝込んでばかりいたからです。物理部に入ったのは、アマチュア無線に未練を残していたからでした。高3の夏休みに江波じょうじ先生のアシスタントになることが決まると、その後でアマチュア無線の国家試験を受けました。高校を卒業して上京し、マンガの業界に入ったら、忙しくてハムの免許を取りにいく暇などなくなるにちがいない、と思ったからです(この考えは当たっていました)。
高校を卒業すると同時に上京し、アシスタントになったのはいいのですが、先生の仕事が思わしくなくなったため辞職を申し出て、その後、編集プロでマンガの編集をするようになります。編集プロは1年ほどで辞め、ジョージ秋山先生の手伝いなどをした後、石森プロに拾われ、『仮面ライダー』や『さるとびエッちゃん』の仕事をするようになりました。
そのかたわらで、書店に行くと小説やノンフィクションの雑誌や単行本を買うついでに、未練がましく「初歩のラジオ」「ラジオの製作」「CQ Ham Radio」といった雑誌も立ち読みしたり購入したりしていました。矢口先生の『幻の大岩魚アカブチ』に出会ったのは、そんなときのことだったのです
ページを開いたとたんにショックを受けたのは、アマチュア無線用のアンテナの絵でした。タワー(鉄塔)の上に3エレメンツの八木アンテナが載り、次のコマの瓦屋根の上にはグランドプレーン(GP)アンテナが立っています。
JH1WXYというコールサインを持つ石原一美という少女が使うリグ(送受信機のセット)は、受信機がトリオ(ケンウッド)の9R-59。送信機は手作り風でした。その送信機の上には、可変周波数発信器のVFOらしき装置も見えます。ヒロインの一美が東北への旅に持っていくハンディトランシーバーは松下電器(ナショナル/現パナソニック)のRJX-601でした。
(図上左、図上とも『幻の大岩魚アカブチ』〈『釣りキチ三平』第5巻(講談社)所載〉より。© 矢口高雄)
アマチュア無線の免許を持っていた私は、いつか機会があれば無線機を買ってハムをはじめたいと思っていました。それでハム雑誌の「CQ Ham Radio」を買ったり立ち読みしたりしながら、ハム用無線機器の動向にも気を配っていましたので、マンガの絵を見ただけで、その機種がわかってしまったのです。
アンテナや無線機をここまでリアルに描くだけでなく、無線で交わされる用語も適切です。矢口先生もアマチュア無線をやっているに違いない、と確信しました(ただし、確認はしていません)。
釣りの描写ももちろん面白いのですが、ストーリーに彩りを添える役割のアマチュア無線ですが、矢口先生がもし免許を持っていないとしたら、徹底して取材し、調べているのは間違いありません。
そして、このマンガを読んだことで、私の胸の奥底で、ムラムラとしたものがうずきはじめます。そうです。自分でもアマチュア無線をやりたくなってしまったのです。
(次回につづく)