編集の仕事をした経験もあるし、石森プロではテレビの世界も身近に体験していましたので、私は「まあ、こういうこともあるでしょう」と思っていただけなのですが、担当編集者のIさんは、そうではありませんでした。Iさんは、このとき「少年マガジン」に異動していたのですが、連載終了の決定を聞いて「理不尽だ」と怒り、「テレビマガジン」編集部に掛け合って、連載分でコミックスになっていない原稿に、描き下ろしの原稿を加えてコミックスの第2巻を出そうというのです。
コミックスは雑誌連載分の原稿をまとめるのが普通です。いちど原稿料をいただいた原稿をまとめて単行本にし、印税がもらえるわけですから、マンガ家にとっては二度美味しいボーナスみたいな感覚です。でも、描き下ろしになると、二度美味しいうま味はありません。初版で入る印税額を計算すると、1ページの単価は雑誌の原稿料よりも安いものになります。でも、売れれば印税額は増えるのですから、ギャンブルと言えるかもしれません。
「初版では終わらせないから」というIさんの熱意に負けて、描き下ろしが大半の『ラジコン探偵団』第2巻を描くことになりました。この頃、埼玉県所沢市の西武球場近くに自宅を購入し、仕事場は石神井公園駅のアパートに移していました。2巻目の原稿を完成させたのは、その新しい仕事場でした。
第2巻でも矢口先生のマンガを思い出しながら、以前なら「マニアックすぎる」と編集者から苦言を呈されたかもしれないような情報をたくさん織り込みました。描き下ろしということもあって、このあたりは自由に描くことができました。自由といっても、もちろん小学生に理解されなければいけません。その小学生が憧れるような、場合によっては射幸心を煽っていると思われるような、子どもでは手が出ない高価なパーツなども描いていきました。
『ラジコン探偵団』が、このような情報面でいかに先鋭的であったかは、読者にも伝わっていたようです。つい最近もTwitterで、この『ラジコン探偵団』のオタクぶり(?)を分析し、大量に呟いてくれた人がいたので、感動した作者がみずからTogetterにまとめてしまいました(笑)。
作者もビックリ! すがやみつるの『ラジコン探偵団』は、低学年児童向けだったのに、こんなにマニアックだった!(togetterまとめ)
第2巻の発売は79年の初夏。すぐに増刷もかかりましたが、自宅と仕事場の引っ越しに費用がかかり、4人ほどいたアシスタントの引っ越し代も払っていたら手持ちのお金がスッカラカン。買ったばかりの家の住宅ローンの支払いにも不安が出る状態になってしまいました。そこで目をとめたのが、講談社で刊行がスタートしていた「大事典」というポケットサイズで分厚い豆百科みたいなシリーズです。このジャンルはケイブンシャの「大百科」シリーズが草分けで、小学館も「全百科」シリーズを出すなど人気を呼んでいました。講談社も後追いで、このジャンルに参入したばかりでした。
私は「テレビマガジン」の編集長に、「大事典シリーズでラジコンの入門書を出せないかと思って企画書を書いてみたんですけど……」と電話をかけました。ちょうど西武球場ちかくの自宅にいたときのことでした。
すると「明日、新刊の企画会議があるから、よければ今日のうちに持ってきてよ」という返事。私はドキッとしながら了承し、「3時間くらいしたら伺いますので」と言って電話を切りました。なぜドキッとしたのかといえば、企画書なんて1文字も書いていなかったからです。まさか、こんなに素早い反応があるとは思わず、OKが出たら書けばいいと思っていたのです。私は大あわてで自宅を飛び出すと、西武狭山線と西武池袋線を乗り継いで池袋まで急ぎ、駅ちかくの喫茶店に飛び込んで、200字詰めの原稿用紙に企画内容を書きつらねました。
編集長に電話をかけたときは、思いつきくらいの段階だったのですが、池袋までの1時間くらいの間に構想を考えていたので、グラビアや本文の構成も含めた目次も含めた企画書は、1時間半ほどで書き上がりました。
タクシーで音羽の講談社に駆けつけ、編集長に企画書を見せると、「これなら、このまま会議にかけられる」とのこと。あとは会議の結果を待つだけです。
そして、翌日の昼前には、「企画が通った」という電話がかかってきました。さっそく台割を作って執筆に取りかかり、講談社のスタジオに行ってラジコンカーの製作経過を写真撮影したり、本文の文章を書いたりイラストも描いたり。このあたりは編集者の経験があるので、お手のものでした。おかげで担当編集者も手がかかりません。
こうして描き上げた『ラジコンカー大事典』が刊行されたのは、1979年の12月。印税が入るのは1ヶ月後ですが、アシスタントの給料支払いにもキュウキュウしていたので、マンガ家になって初めて前借りをしました。前倒しで印税を支払ってもらったのです。おかげでアシスタントの給料と年末の餅代に住宅ローンも支払うことができ、手もとには30万円ほどが残りました。(この本も増刷がつづいて20万部以上になったはずです)
これで年越しができると家族もホッとしていたのですが、年の瀬も詰まった12月30日になって、私は30万円のうちの20万円をおろすと、新宿に向かい、南口にあったムーンベースというコンピューターショップでパソコンを買ってしまいます。アマチュア無線をしている間、暇さえあれば秋葉原に出かけ、そこで「マイコン」というものに遭遇していました。ハム仲間からもマイコンに転向する(転ぶと称しました)人が出てきて、マイコンを触らせてもらいにいったりしているうちに、進化しつつあったパソコンが、どうしても欲しくなってしまったのです。
すでに『ゲームセンターあらし』は始まっていましたが、『こんにちはマイコン』へのスタートは、ここからでした。そちらの話は、またの機会とさせていただき、矢口高雄先生の作品に影響されてできたホビーマンガの話は、ここで一度おしまいとさせていただきます。長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。また、昨年、亡くなられた矢口高雄先生に、あらためて追悼の意と感謝の念を捧げさせていただきます。ありがとうございました。やすらかにおやすみください。
ああ、そうだ。私は、その後、『ゲームセンターあらし』を経て、大人向けの学習マンガを多く執筆するようになり、1985年には『コミック版最新ハム問題集』というアマチュア無線の国家試験(無線工学)をマンガで解説した本を描き下ろしで出しました(作画は元アシスタント)。この本、昨年は増刷がありませんでしたが、一昨年(2019年)までの34年間、増刷を続けるロングセラーとなってくれています(まだ絶版ではありません、たぶん)。免許を取得してみたい方は、ぜひ、1冊お買い上げください(^_^)。
ちなみに、矢口先生とのホビーマンガ以外の思い出についても、書かせていただく機会があるかと思います。予定は未定ですが、なるべく早く書かせていただきますので、見かけたら読んでみてください。